豊かな発想力の源とは?人気作曲家の曲づくりから学ぶ、アイデアの種の育て方
うれしい時や楽しい時の気分をさらに高めてくれたり、落ち込んだ時にそっと寄り添ってくれたり。音楽は私たちの日常のさまざまな場面を彩る大切な存在です。 心を激しく揺さぶるような楽曲や、思わず口ずさんでしまう親しみやすいメロディは...
年始は神社に初詣に行き、夏はお盆、12月になるとクリスマス。結婚式は教会で挙げ、お葬式はお寺で……。日本では多くの人々が、日常の中でさまざまな宗教を行き来しています。それなのに、宗教について学んだり考えたりする機会は、今まであまりなかったという人が多いのではないでしょうか。
今回の「わからないから、おもしろい。」は特別編として、日本とアメリカで神学を学び、現在も実践神学を専門として研究を続けている神戸女学院大学の中野敬一学長にインタビュー。キリスト教だけでなく他宗教も比較しながら、葬送儀礼や死生観を考察し、「生と死」について多面的に研究している中野学長。宗教や死について学ぶことの意味を、時にユーモアを交えながら温かく優しい語り口で話してくれました。
同志社大学大学院神学研究科博士課程前期修了、Pacific School of Religion(Berkley, California/米国・太平洋神学校)博士課程修了。2010年より神戸女学院大学に着任、2021年4月より現職。学校法人神戸女学院の学院チャプレンも務める。
両親がクリスチャンだったので、幼少期から教会に通っていましたが、中学生くらいになると、反抗期というわけではないですが、なんとなく教会から足が遠のいてしまいました。再びキリスト教に関心を持つようになったのは高校生の頃。実は当時、父の会社が倒産してしまい大変だった時期で、生きるとは何か、生きがいとは何かといったことを考えて、思い悩んでいました。でも、そんな悩みや苦しみを友達には話せなくて、普段は顔には出さずにニコニコして過ごす日々。その時に精神的な支えになったのがキリスト教だったんです。キリスト教をもっと深く知りたい、そして将来は牧師になりたいと考えて、神学部のある大学を選びました。
神学には、聖書神学・歴史神学・組織神学・実践神学という4つの分野があります。私は特に聖書神学(新約聖書神学)と実践神学で扱うことを研究し、現在も実践神学を専門としています。キリスト教は神の救済を基本としていますが、神様に「お願いします」と言っているだけで何か事が起こるわけではなくて、神様が誰かを救おうとする時には人の力が必要です。神の救済、つまり神の実践に人が参加することが実践神学です。
わかりやすい例を挙げるならカウンセリングでしょうか。教会には牧師による牧会カウンセリングというものがあります。教会を訪れる人たちと対話して、悩みや苦しみに寄り添い、支えになろうとする。神の救済に人が参加するための、一つのアプローチ方法ですね。実践神学には他にも、礼拝や説教、礼典、儀式、教会音楽など教会の現場におけるさまざまな事柄が含まれます。
実践神学の中でも、特に私が専門としているのは葬送儀礼。このテーマに関心を持つようになったのは、10数年にわたって教会で牧師を務めてきた経験からです。教会にはさまざまな困難を抱えた人たちが拠りどころを求めてやって来ますが、中でも一番大きいのは死の場面。人にとって最も辛い場面は、やっぱり死ですよね。ですから葬送儀礼というのはとても大切な儀式だと思っています。お葬式で何を語り、どうやって慰めたら良いのか。グリーフケアという言葉もあります。悲嘆(grief)にどうやって寄り添い、ケアすれば良いのか。その大切さを実感し、もっと勉強したいと研究を始めました。
残された人にとって大事なのは、お葬式だけでなくその後のケアもです。葬儀の時ってすごく忙しくてバタバタしているでしょう? じっくりと悲しんでいられる時間がない。だから、実際にどこで悲しみが押し寄せてくるかというと、皆さんが立ち去った後です。1カ月後、さらには数カ月後も含めて、お葬式後のケアこそ必要だと思うんです。
仏教式の葬送儀礼には、法事があります。儀式として人が集まることは、残された人をケアする貴重な機会として、非常に意味があると思います。日本は本来そういうことを大事にしてきた文化がある。でも最近では形骸化してしまって、葬儀の時に初七日や四十九日の法要もまとめて行うケースも増えていて、本来あったはずの文化がどんどん失われているのはとても残念に思います。
キリスト教にも記念式という、仏教の法事のような儀式があります。キリスト教では、三回忌や七回忌といった時期が決められていないのですが、1年や3年などの区切りに集まって故人を偲ぶ会を行います。私はこういう機会がもっとあっても良いんじゃないかと考えています。
法事も記念式もそうですが、悲しみを表出できる場というのはすごく大事です。悲嘆を自分の中に閉じ込めておくのではなく、表出することによって慰められることもあります。私は「立ち直る」という言葉があまり好きではないんです。早く立ち直って前を向いて生きようとか、なんとなく急かされる感じがするじゃないですか。私はむしろ「引きずって何があかんの?」って思うんです。亡くなった方と一緒に生きた時間を大切にしながら歩んでいくことは、決して悪いことではないですから。もっと丁寧に、残された人を周りが温かく包んでいけたらいいんじゃないかなと思います。
葬送儀礼に関連して、死生観や他界(あの世)観など、死についても研究を進めています。死を研究テーマとして扱うと聞くとギョッとする方もいらっしゃるかもしれませんが、死について学ぶ、少なくとも死に意識を向けておくことは、誰しも必要だと思います。なぜなら、すべての人は必ず死ぬからです。死を学ぶことは、生を学ぶこと。より良く生きるために死を学ぶ必要があると、私は考えています。
たとえば年末になると、今年も何もできなかったとか、こんなことをすれば良かったとか、一年を振り返って反省しますよね。終わりになって初めて気づくことってあるじゃないですか。死も含めて、終わりを意識することは、今この貴重な時をどう活かしていけば良いのかと考えるきっかけになります。
もし今日が人生最後の日だったら、もし余命が1カ月しかなかったら、どうするか考えてみたことはありますか? 私が講演をする時に皆さんに質問すると、「お世話になった人に感謝を伝えたい」とか「この場所に行っておきたい」とか、いろいろなことをおっしゃいます。そこで私は「じゃあ今すぐされたらどうですか」と言うんです。本当に死を間近にした時には、きっとそんなことはできない。病院で寝ているでしょうから。たとえば家族に感謝を伝えたいなら、「なんでそんな死のギリギリの瞬間に伝えなあかんの?」と思うんです。今日伝えたら良いじゃないですか。死ぬ時ではなくて、普段から何度でも伝えたら良いですよね。
死ぬ前にやっておきたいことがあるなら、今すぐやれば良い。そうすれば、きっと生き方が変わってくるはずです。それが死を意識すること、より良く生きるということです。死をしっかりと見つめることで、前向きに生きられるのではないかと思います。
死を研究テーマとして扱うことは、いのちについて考えることにもつながります。いのちとは何か、いのちはどの時点から始まるのか。生殖補助医療や脳死、臓器移植、安楽死や尊厳死についての研究も続けてきました。価値観が多様になり、選択肢がたくさんあるのは良いことですが、技術がどんどん進歩していく状況に対して、本当にそれで良いのかと問いかけ、歯止めをかける存在も必要ではないかと思っています。そういった倫理面において、宗教が果たす役割は大きいのではないでしょうか。
日本人は無宗教だと言われることがありますが、たとえばご先祖様に手を合わせている姿を見ると、それは十分「宗教」ではないかと私は思います。ご自身では宗教だと捉えていらっしゃらないかもしれませんが、客観的に見ると十分に信仰であり宗教なんです。無宗教を自認している方でも、初詣に行ったり、仏教式のお葬式をしたり、何らかの形で宗教に関わっているのではないでしょうか。
日本の人たちは無宗教と言うよりも、宗教の教えや内容、教義というものに関心がない人が多いのではないかと思います。たとえば、ご自分は仏教徒だと言う方に「宗派はどこですか」と尋ねると、「知らない」とおっしゃる。あるいは、宗派は浄土真宗だと言う方に「浄土真宗で大切なお経は何ですか」と聞くと、「わからない」とおっしゃるわけです。
実はアメリカでも同じようなことがあります。多くの方がクリスチャンですが、キリスト教について詳しく知らないんです。洗礼を受けているし、結婚式もお葬式も教会でするけれど、普段は教会に通っていない。あるいは、教会には行っているけれども聖書をあまり読んだことがない。そういう方が圧倒的に多いというのが私の実感です。仏教徒だけどお経は読んだことがないっていうのと同じレベルですよね。教義にはあまり関心がないという意味では、日本もアメリカもヨーロッパも、同じような状況だと思います。
私が思うには、現代において宗教者を自認する人というのは、いわばマニアックな人なんです。聖書やお経をちゃんと読んでみようと思うような人は凝り性な人。私もそういう意味ではマニアなんだと思います。教義までは突き詰めようとしないという人たちは、宗教のファンだけどマニアではない。だいぶ砕けた言い方になりますが、マニアになると宗教の奥深さに気づいて、興味が尽きなくなるんですよ。
神戸女学院大学では、全員が必修の授業としてキリスト教について学びます。他にも、私の担当する授業では、キリスト教だけでなくさまざまな宗教と現代社会の関わりについて学ぶ機会を設けています。
宗教について学ぶことには、大きな意味があります。どんな時代でも、どんな地域でも、宗教は存在します。どれほど近代化が進んでも宗教がなくならないのは、時代が変わっても人間が求めるものは変わらないからでしょう。苦しみも悲しみも、本当の幸せも、いつの時代も変わらない。ですから、宗教を知ることは人間を知ることだと思います。人間を知ることは、社会や経済、政治を知ることでもあります。宗教を学ぶことは決して世離れではなく、むしろ世の中を知るために大切なことなんです。たとえばイスラム教について何も知らずに、世界情勢を理解するのは不可能ですから。
現代社会において宗教の知識は欠かせないものだと思います。歳を重ねるほど宗教に関心が向く人が増えてくるように感じますが、ぜひ若い方にも関心を持っていただきたいですね。
(ライター:藤原 朋)
平山正実著
教文館発行 2014
「死を学ぶことは、生を学ぶこと。より良く生きるために死を学ぶ必要がある」と語る中野学長が、死について考えるきっかけにと紹介してくれた一冊です。著者は精神科医でありキリスト教者でもある平山正実さん。「死とは何か」「人はどう死の恐怖を克服してきたか」といったテーマに関する8編の論考と、遺稿「キリスト教と死生学」が収録されています。いずれ必ず訪れる大切な人の死、そして自分自身の死に向き合うための最初の一歩として、読んでみてはいかがでしょうか。
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